北海道
北海道はいつ頃までか分からないが、選抜出場枠を東北と合わせた一つの地区
として、そこから評価に応じて配分する方法が取られていた。例えば78年では北
海道・東北で出場枠3で、まずは両地区1校ずつ決め、残った1校をどちらかの地区
から1校選ぶという手順で行われた。81年には北海道地区のレベルアップが認め
られたということで2校出場(北海道日大、東海大四)があったが、2校共に選抜
初戦負けで評価を上げることができず、翌年からまた1校出場に逆戻りした。88年
は記念大会ということで2校出場。89年の2校出場は東京の出場枠が1校減った
ため北海道に出場枠が回ってきた形だが、実際には特別評価が高かったという
わけではない。93年、98年も同じように記念大会で増枠2校出場。21世紀に
なってから、21世紀枠、希望枠、神宮枠でそれぞれ増枠があるが、一般枠
での出場はずっと1校が続いており、選抜出場の倍率が非常に高い地区である。
一般枠での出場枠は通常1なので、北海道大会優勝校がそのまま当選するとい
うのが定着している。準優勝校が補欠校に回るというのもほぼ定着している。
準優勝校が2番手評価にならなかった例としては06年の2校枠で、決勝で駒大苫
小牧に大敗した北海道栄ではなく、準決勝で駒大苫小牧に善戦した旭川実が当選
したというのがある(北海道栄も駒大苫小牧の出場辞退で代打出場した)。
そのほかには90年、03年、07年がある。
東北
北海道と合わせて出場枠3だった時代から出場枠2を確保し続け、89年夏の甲
子園での東北勢の活躍をきっかけに90年選抜は一般枠で出場3校を獲得した(この
割を食ったのは東京)。一般枠は2校のままだが、21世紀枠での当選が他地区に
比べて多い。
79年は東北大会準決勝で仙台育英と鶴商学園が対戦、勝った仙台育英が落選し
負けた鶴商学園が当選という逆転選考が起こった。※
地区大会優勝校は不祥事等が起こらない限り文句なしで当選になるが、準優勝校は79年の
例にもあるように、大敗で評価を落としたり下位校に強く推される学校があったり、地域性
などが影響するなどして落選することもあり、当確とはいえない。
例=78年、95年、97年、09年
※ 21世紀枠の場合は地区大会に出場していない学校も当選することがあるため
逆転選考は普通に起こる。一般枠での逆転選考は78年以降ではこの例と93年
の近畿(京都成章が落選、川西明峰が当選)の2回しかない。
関東
関東の出場枠が3校だった時代は、関東・東京合わせて5校枠で割り当ては後
から決めるという方法がとられていたこともある。だが実際のところ78年以降で
は関東・東京5校枠=関東3、東京2の配分が崩れたことはない。79年、80年
のように両地区同時進行で選考が行われたこともあるが、ほとんどは最初に出場校数
の割り当てを決めてから別個に選考作業に入るという形だったようだ。その後、全国
で実績を残し続けたことで出場枠は4へ、更に5に増えた。02年になると21世紀枠
の影響で4校枠に減り、03年から、再び出場校
を関東単独ではなく東京と
合わせた関東・東京地区として選ぶ形になった。
3校枠の時は関東大会優勝校、準優勝校、ベスト4で敗れた1校で計3校の当選と
いう形が続いた。4校枠になった83年〜87年までの5年間では83年、84年
の2回、ベスト4に残った学校が1校落選、逆に残れなかった学校が当選している。
出場枠が5校になってからは関東大会ベスト4は選抜ほぼ当確と見ても良いほど
になった。88年〜01年までの間、ベスト4進出で落選したのは90年の春日部
共栄の1例のみ。93年、98年では市船橋、浦和学院がそれぞれベスト4コールド
負けで当選している。その後のベスト4落選は02年の太田市商の例がある。逆に大会
未勝利ながら08年に開催県のスーパーシード(宇都宮南)が当選したことがある。
02年以降は関東単独の出場枠は(基本数)4にとどまっているが、東京との最後の
1校の争いに勝ったり、21世紀枠、神宮枠を獲得したりなどで、実際には5校以上
の出場が多い。
東京
東京は参加チームが多く球場難の問題もあり11月上旬に代表校を決めるのが難しい
という経緯から関東大会には参加せず単独の東京大会を開くようになったという。
出場枠は関東・東京地区で選考していた時代から2校を確保し続けたが、89年に
途切れ90年も1校どまり。91年に2校枠を取り戻すとしばらく維持し続け02年
まで続く。03年に関東・東京地区選考に戻る。78年〜88年、
91年〜02年の出場枠2校時代は東京大会決勝進出の2校がそのまま当選するという
のがほとんどだった。唯一の例外は94年に準優勝した東海大菅生。決勝での大敗が
響いて落選の憂き目にあった。
北信越
北信越は84年あたりまで東海(中部)と両地区で出場枠が設けられ、そこから地区
配分していた。78年、80年、81年は出場枠1校にとどまるなど、その当時は
北信越の評価は同じ地区の対象となる東海に比べるとかなり低いものだったようだ。
実際になったことはないが、年によっては5校の出場枠のうち(北信越1、東海4)と
いう割り当てになる可能性もあった。82年以降は2校の出場枠を確保し続けている。
08年には北信越・東海で出場枠(神宮枠含めた)6校が割り振られ北信越からは3校
が選ばれた(一般枠での3校選出は78年ぶり)。通常2校枠のため北信越大会で決勝
まで勝ちあがれば当選するケースがほとんどである。例外は95年と03年。
特に03年は珍しいケースで、大会1勝(8強)止まりの福井が決勝まで勝ち進んだ
福井商に県予選順位など他の要素でことごとく上回ったため当選した。
東海(中部)
東海(中部)は78年〜03年まで3校の出場枠を確保し続けてきたが、04年は前年
に新設された希望枠の影響で出場枠1校減の2校になった。希望枠が廃止
となった現在も記念大会を除けば3校枠を取り戻せていない。出場枠3校時代は東海大会決勝進出2校と
4強の片方が当選するというのがお決まりのコースで波乱はほとんどなかった。03年
の例外があるだけである。また大会未勝利で選ばれたケースは03年の東邦と出場枠
(基本数)が2校となった04年以降の08年宇治山田商の例がある。
近畿
近畿は出場枠が多く78年〜01年までは81年を除いて7校枠を確保しており、
記念大会の98年では8校の出場枠を得た。02年に21世紀枠の新設により1校
減り6校枠となり現在に至る。出場枠7校の時代は最後の1、2校で議論が紛糾
することが多かった。そんななか近畿大会4強のチームはほとんど安泰といえる。
78年以降、近畿4強で選抜を逃したのは84年の近大付のみ。府予選と大会で立て
続けにPL学園に完敗したこと、また大阪にもう1校、三国丘という強力な候補が
挙がっていたなどの不運が重なり落選した。近大付はのち03年に近畿初戦敗退
ながら当選した(「センター返し枠」と一部で語り継がれる)。
出場枠の多い近畿は初戦敗退のチームから当選することが多く、不戦勝を除く初戦敗退組
からの一般枠当選は03年近大付のほか88年神港学園、89年八幡商、91年奈良、92年東山、93年は川西明峰
、智弁学園の2校、00年智弁和歌山、07年県和歌山商の当選が
ある。高い潜在能力を買われて当選した2000年の智弁和歌山は期待通りに
選抜では準優勝、夏は猛打で優勝した。
中国
中国の出場枠は78年〜88年まで3校が基本数で残りの1校を四国と争うという
形になっているが、実際に中国・四国という一つの括りで選考が行われたわけでは
なく、選考作業の前に中国○校、四国○校と割り振ってからそれぞれ別に選んで
いたようだ。この11年間での四国との割り当てで4校枠を獲得したのは(中国4回
四国7回)で負け越しており実力評価では四国に及ばなかった。その後も03年まで
3校枠を確保し続けた(93年、98年の記念大会では4校枠)。04年に中国・
四国両地区での選考になってから両地区合わせて5校枠になった。
四国
多くの実績を残し実力も高く評価されてきた四国は学校数に比べ出場枠は多い。80年
代は10年のうち6回4校選抜出場を果たした。平成以降は成績が低迷気味だったが
16年に高松商が準優勝して久々の野球王国復活を果たした。近年は21世紀枠の
出場校が多い。
九州
九州は1983年から出場校4校が定着し基本数4校が現在も続いている。九州ベスト4
の4校が当選するケースが多いが、準決勝でコールド負けした高校が落選することも
たまにある。1983年〜2016年までの九州4校当選データ
だがこの期間に準決勝でコールド負けしなかった高校はすべて当選しているため大差さえ
つかなければ当選確実になっている。