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◆始まり 1871年(明治4年)10月31日に居留地265番地(現在の横浜中央病院付近)のスワンプ(沼地)・グラウンド で行われた外国人同士の試合が日本で初めて行われた野球とされる。 対戦したのは軍艦コロラド号の船員と横浜の外国人居留民で、コロラド号が韓米戦争(辛未洋擾)での 船体破損に加え、帰港中に座礁で破損し、鹿児島藩に救助され、横浜港に辿りつきたまたま試合が 行われることになったようだ。つまり日本の野球の歴史の第一歩を踏み出したのは予想外の偶然からといえる。 アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが来日、東京大学の前身で教鞭をとり始めたのは同じ1871年(明治4年)の 8月。翌1872年(明治5年)の5月ごろに学生たちにベースボールを教えたのが、日本の野球の起源とされる。 東京大学の前身は明治4年に大学南校から南校、明治5年には第一大学区第一番中学、明治6年には開成学校、 東京開成学校と名称を変更しているから、ベースボールが伝えられたときの名称は第一大学区第一番中学と いうことになる。 ウィルソンが着任当初に教えた教科は最初は英語に普通学(一般教養)だった。彼は教師をするかたわらで、 ベースボールを学生たちに教えていたわけだが、来日早々からベースボールを始めたわけではない。 学生たちが部屋に閉じこもってばかりいることから、外でスポーツをすることを勧めるためベースボールを 教えることにしたらしい。とはいえ1872年(明治5年)の時点では、ベースボールと言ってもノックの練習 ばかりだったということでゲーム形式には至っていない。しかし1875年(明治8年)には既に仲間内での試合が 行われるようになっていた。更に翌1876年(明治9年)にはアメリカ海兵隊員や横浜の居留外国人チームと 対戦した記録も残っている。 外国人チーム対日本人チーム 1876年(明治9年)夏、記念すべき最初の日米野球 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本人チームはウィルソンの教え子たちで構成された。一方、外国人チームにはウィルソンが三番・レフトで試合に している。 このように日本のベースボールが伝えられた始まりは第一大学区第一番中学と一般的に知られているが、 熊本洋学校のほうが早い段階からベースボールが行われていたのではないか、という説もある。 アメリカ人教師L・L・ジェーンズが熊本洋学校で教師をしていたのが、1871年(明治4年)〜1876年(明治9年) までの間。この間にベースボールを学生たちに教えていたとのこと。着任すぐにベースボールを教えていた のであれば、ウィルソンよりも早かったことになる(明治7〜8年ごろという説が有力)。 1876年(明治9年)に熊本洋学校は廃校。熊本洋学校の学生たちは同志社に集団で転校。同志社のベースボール の始まりは東京からの影響のほか、熊本洋学校の転校生によって広められたともいわれる。 札幌農学校もベースボールとの関わりは深く歴史も古い。東京・芝にあった前身の開拓使仮学校で1873年(明治6年) 、英語教師アルバート・ベイツにより、開成学校よりも早くベースボールが行われていたとの記述もある (実際には明治6年なら東京大学の前身よりも後になる)。 ベイツは「無類の野球好き」として知られ、ベースボール指導早々からゲーム形式で行っていたというので、 本格的なベースボールの始まりはこちらのほうが早いとも考えられる。 日本のベースボールの基盤を作ったのはアメリカ人教師だけではなかった。アメリカ留学から帰ってきた 日本人学生の影響も非常に大きい。1871年(明治4年)に16歳でアメリカ留学に出た平岡熙が1876年(明治9年) に鉄道技師として帰国した際、土産として持ち帰ったのがベースボールとローラースケートだった。 アメリカ留学中にすっかりベースボールの魅力に取り付かれた(野球の腕前も工員としての実力もかなりのものだった らしい)彼は帰国後に直伝のベースボールを始め、日本初の本格ベースボールチーム”新橋アスレチック倶楽部” を結成したのが1878年(明治11年)のこと。 ◆野球の名付け親 野球好きで自らも熱心な選手であった俳人、正岡子規が1886年(明治19年)に”ベースボール”を”弄球”と名づけた。 さらには”投手”、”打者”、”走者”などの外来語も日本語に翻訳。1890年(明治23年)には自身の幼名 ”升(のぼる)”とベースボールを引っ掛けて”野ボール”=”野球”として”野球”という表記を最初に行ったといわれる。 正岡子規は野球関連の句や歌を詠み、文学を通じて野球の発展に貢献したということで、2002年(平成14年)に 野球殿堂入り。実際には”ベースボール”を”野球”と訳したのは1894年(明治27年)、一高生だった中馬庚が 始まりである。テニスは庭でするので”庭球”、ベースボールは野原でするので”野球”とのこと。中馬庚はベースボール を最初に野球と訳した人で、後輩の指導にも力を入れ、日本野球界に大きく貢献したことから1970年(昭和45年) に野球殿堂入り。 ◆中等野球 各地区大会 明治30年代になると中等野球の野球熱も次第に高まり、各地区による大会が行われるようになった。主に主催を 受け持ったのは各地の旧制高等学校だった。 ◆道場破り このように全国中等野球大会が開幕する以前の明治から大正初期にかけては、各地で地区大会が行われていたが、 腕に自信のある中等学校野球部は、地区大会の参加だけでは飽き足らず、遠隔の地まではるばる出かけ、別の 地区大会に参加を申し込むといういわゆる”道場破り”も行われていたのである。 代表的なのが島根の松江中だ。1903年(明治36年)、1905年(明治38年)、1907年(明治40年)の三度に わたり山陽地区への遠征を決行している。当時山陰から山陽方面に向かう交通機関もなく、なんと歩いて中国山脈を 越えたというのである。1903年(明治36年)は山陽遠征で岡山だけではなく、神戸、京都にも遠征。山陽方面は 汽車が通っていたが、それでも今では考えられないような長旅だったのは間違いない。更には 1907年(明治40年)には名古屋まで足をのばし東海五県連合大会にも参加しようとした(雨のため結局参加せず)。 その他では関西の近県連合野球大会(三高主催)に参加した愛媛の松山中や、松山で行われた三中学対抗戦に 高松中、松山中とともに参加した広島中、慶応普通部の浜松、京都を経由した神戸遠征、横浜商の関西遠征などが 挙げられる。 1915年(大正4年)、第1回夏の全国中等野球大会で優勝を飾った京都二中も、その4年前の1911年(明治44年) に東京遠征を決行している。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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この武者修行の成果が記念すべき第1回の全国大会で発揮されることになった。 ◆野球害毒論 ◆第1回夏の全国中等野球大会 開催 1915年(大正4年)7月1日に大阪朝日新聞社が全国中等学校野球大会開催の社告を掲載。 だが朝日新聞といえば東京朝日新聞社が1911年(明治44年)に野球害毒論キャンペーンを展開したばかり。 ではなぜキャンペーンからわずか4年後にその朝日新聞社主催による全国規模の野球大会が行われることに なったのか。全国中等学校野球大会開催に至る経過についてはいくつかの説があるようだ。 東京朝日新聞が行った野球害毒論キャンペーンが失敗(逆に野球への関心を高める結果になった)に終わり、 朝日新聞の購読数が激減してしまった為、善後策を会議で求めたところ、その害毒論キャンペーンをはった一人が 「あやまちを改むるにはばかるなかれで、全国中学によびかけて、優勝試合をおこなわしたら、どうでしょう」と提案し 大会が行われるようになったという説。 また当時の大学生の持ち込み企画だったという説もある。京都二中の卒業生で、当時京都帝国大学に在籍していた 高山義三が母校・京都二中の練習試合を見学するうちに「近県の中学を集めた大会があれば優勝するかもしれん」と いうほどの強さだと思ったことをきっかけに朝日新聞京都通信部に大会の開催と優勝旗の提供を持ちかけ、この話が 発展し全国大会が開催されるに至ったという説。いくつかの説があるが、ともあれ今では国民的行事といっても過言 ではない夏の甲子園大会(全国大会)の記念すべき第1回が豊中グラウンドで行われることになった。 ◆第1回大会〜地方大会皆勤出場15校 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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