中等野球 草創期の各地方大会(中等野球大会前史)

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山陰

山陰野球大会 開催球場 :□□球場
主催__ :参加校の持ち回り

参加校優勝校備考
1906年(明39年)00
第1回
松江中、杵築中、浜田中、米子中、
島根商
  
19△年(明△年)
第2回
    
19△年(明△年)
第3回
    
19△年(明△年)
第4回
    
1913年(大2年)008月
第5回
    

1913年(大正2年)第5回山陰野球大会では、大会二日目の第三試合、米子中対松江中の試合前に、
両校応援団の激しい乱闘があり、これはとても野球ができる状態ではないということで、松江中の選手たちは
試合をすることなくグラウンドから去っていった。トラブルの原因の一つは大会初日の第二試合、米子中対杵築中
の対戦で勝負どころでの主審(※)の微妙な判定に対する不満にもあった。微妙な判定は是が非でも試合に勝ちたい
という米子中の気迫に押されたという声もある(結果は米子中2−1杵築中)。
応援団乱闘騒動により、鳥取、島根両県の交流は中断し、中学の試合も禁止されたため以後山陰野球大会は中止。
2年後の1915年(大正4年)に開催された記念すべき第1回夏の全国中等野球大会にも影響を及ぼすことになる。

※ このときの主審は米子中にコーチに来ていた慶応大の三宅大輔が務めた。後に初代巨人監督、また初代
阪急監督として草創期のチームを築き上げた人物である。

予選の山陰大会は鳥取と島根の2県で代表枠は1校。地元での鳥取の学校と島根の学校の対決は騒動が起こること
が懸念され、その結果、鳥取、島根は別々に代表を決め、全国大会の会場である豊中球場で山陰の代表校を
決めることになった。

1915年(大正4年)第1回夏の全国中等野球大会予選・山陰大会決勝(8月15日 豊中)
鳥取中_
杵築中
【鳥】 鹿田―松田
【杵】 千家―奈良井

わざわざ大阪まで試合に遠征して敗れた杵築中だったが、全国大会出場を決めた鳥取中にエールを送った
というエピソードは今も美談として語られている。これをきっかけに一旦、両県の関係は修復し、
第2回以降の山陰大会は鳥取・島根両県混在で行われることになった。



中等野球・高校野球の1試合における決着までの最長イニング記録は全国大会、地方予選通じて延長25回。
1933年(昭和8年)第19回夏の甲子園の中京商対明石中の試合が有名だが、山陰大会島根県予選でも
戦前、延長23回日没引き分けという当時の地方予選最長記録とされる大延長戦があった。

1935年(昭和10年)第21回夏の全国中等野球大会予選・山陰大会島根県予選1回戦
松江中_
大田中
【松】 売豆紀
【大】 有田
[再試合 大田中1−0松江中]