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甲子園 |
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春夏の甲子園で達成されたノーヒットノーランは、参考記録を除いて 春は12人の投手で12回(完全試合2回含む)、夏は22人の投手で23回達成されています。 |
春 選抜大会では2人の投手が完全試合の大記録を達成している。1978年(昭53年)第50回大会の 前橋・松本稔投手が比叡山を相手に、1994年(平6年)第66回大会の金沢・中野真博投手が江の川を相手に それぞれ記録。両投手共に右腕。 松本投手は大会前には下馬評にも上らなかった投手で、特別球が速いわけでもなかった。それが1回戦の 比叡山戦では縦、斜め、横と3種類のカーブを駆使し、さらにはスライダーも冴え渡り、相手打線を翻弄。 過去の大投手でさえ手の届かなかった甲子園史上初の完全試合という歴史的快挙を成し遂げた。 中野投手はスライダーを得意とする投手。江の川戦では投球数99のうち、直球48、スライダー35、カーブ16。 一回り目は外中心、二回り目は直球中心、三回り目はスライダー中心と巧みに配球を変え、なんと言っても コントロールが素晴らしかった。 偉業を達成した2投手は共に次の試合では相手打線に攻略されて試合に敗れている。完全試合で有名になった ことにより、他校のマークが厳しくなったのか、その年の夏の甲子園に戻ってくることはなかった。 夏 選手権大会で達成された完全試合はまだないが、準決勝、決勝と2試合連続でノーヒットノーラン を達成した 海草中の嶋清一投手、延長でのノーヒットノーランを達成した後の世界の王・早稲田実の王貞治投手、 春夏連覇と決勝のノーヒットノーランという快挙で大会のクライマックスを大いに沸かせた横浜の松坂大輔投手 など数々の伝説も残っている。 |
夏の地方大会 |
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夏の地方大会で達成されたノーヒットノーランを調べたところ、相当な数に上りました。 しかもいまだに発見できていないものも多数あり、このコーナーを充実したページに するには相当な時間がかかりそうですが、気長に作成していこうと思います。 コールドや継投の参考記録は基本的には省略することにしますが、完全試合や後にプロ入り する投手、三振記録などで印象に残った記録に関しては取り上げることにしました。 |
以前1942年(昭17年)夏の近畿大会和歌山県予選で海草中の真田重蔵投手が海南中を相手に完全試合を 達成したと載せていたが、調べていく内にデータの食い違いを発見したため仕方なく削除。この完全試合 の記録はおそらく別の公式戦(もしくは練習試合)のものではないかと思われる。 <追記>・・1941年(昭16年)春の近畿大会で達成された完全試合のことである可能性が高い。 新宮の前岡勤也投手は1955年(昭30年)の和歌山県予選で2つのノーヒットノーランを達成し、5試合で被安打 がわずか5という快投を見せたが、この5試合すべてで失点が0だったので、2つのノーヒットノーランの 試合を特定することはできなかった。<追記>・・判明しました。甲子園ではこの年の選抜優勝校で数多くの 強打者を揃えた浪華商を、打者の手元で浮き上がるストレートとドロップでわずか4安打、10奪三振とねじ伏せた。 浪商の尾崎行雄投手は27人の相手を完全試合、なんと26三振を奪ったという話を聞いたこと があるが、この試合がいつのものかいまだにわからず調査中。おそらく練習試合のものと思われる。 奪三振といえば、1983年(昭58年)福島県大会3回戦で日大東北の左腕・斉藤勝己投手が梁川戦で 達成した 25奪三振というのが、おそらく延長の参考記録を除く夏の予選での1試合最高の奪三振記録だろう。 左腕・斉藤投手はこの試合、外角高めのストレートを主体に内角低めのカーブを織り交ぜ緩急をつけ、 梁川打線を翻弄。25の奪三振の内、15連続奪三振、空振り三振が15。相手が試みたセーフティーバントも ことごとくファールにするなど付け入る隙を全く与えなかった。 9回2死からセンター前ヒットを打たれ、惜しくもノーヒットノーランを逃したが、彼は次の福島工戦でも 9回2死までノーヒットに押さえる素晴らしい快投を見せた。 戦前の記録を見てみると、京都商の伝説の投手・沢村栄治投手の23奪三振の記録が目を引く。 なお沢村投手は市岡中との練習試合で延長13回を投げ、39アウトの内、三振31を奪うというとんでもない 記録も残している。この件に関しては他説がいくつかあるが、9回を25奪三振、延長に入り13回で合計 31奪三振というのが最も一般的な説のようだ。 <追記>・・弘田正典氏作の「沢村栄治選手がいた頃の京都商業」(エクセルファイル)により判明しました。 連続奪三振で有名なのが、サッシーこと海星の酒井圭一投手の16連続奪三振だ。 1976年(昭51年)西九州大会長崎県予選3回戦で島原中央の各打者に対し、初回の三者三振に始まり 16人連続で三振を奪った。時折カーブもはさんだがほとんど直球勝負。 7回コールド勝ち参考記録ながらノーヒットノーランのおまけつきだ。22人の打者に対し18奪三振、4本が 内野ゴロ(失策1)投球数は98。これでも本人と捕手からすれば「普通の出来」だったらしい。 最近では東北のダルビッシュ有投手の宮城県大会新記録の11連続奪三振が記憶に新しい。 連続奪三振とノーヒットノーランの組み合わせなら、1993年(平5年)北北海道大会釧根地区2回戦 厚岸水産戦で5回コールドながら完全試合を達成した根室の橘啓介投手が最もインパクトが強い。 なにしろ5回までの15人の相手打者すべて三振の完全試合、というとんでもない投球だったのだ。 この試合、投球数は74、バットに当たった球はファウルチップの5球だけというから驚きだ。 1988年(昭63年)の愛知県大会で杜若の中村佳広投手も4四球あったものの、5回コールドの アウト15のすべてで三振を奪うという快挙を成し遂げている。 さらに昔の記録に遡ってみると、酒井投手の16連続奪三振を上回るなんと17連続奪三振を発見。 1959年(昭34年)京滋大会京都府予選2回戦で東山の荻生清次投手が須知戦で達成。外角ギリギリに 決まるカーブと直球で初回から連続の17奪三振。6回1死、その17人目の打者が振り逃げで出塁した後、 次打者が二飛で連続奪三振記録は途切れるが、その次の打者もきっちりと三振に抑え18奪三振。 試合は11点差のため、6回コールドで終了。参考記録のノーヒットノーランも達成。 同投手は本来中堅手。163センチ54キロという小柄な投手で、この日臨時投手をつとめたもの。 <追記>・・その後、荻生投手の連続奪三振記録19説が浮上。 1971年(昭46年)東京都大会4回戦では日大一の保坂英二投手が日大鶴ヶ丘を相手に6回参考完全試合 を達成。この試合18人の打者に対し17人から三振を奪うという快投を見せた。唯一前にボールが飛んだ のは4回の遊ゴロのみだった。 ノーヒットノーランの連続試合では1972年(昭47年)北関東大会栃木県予選で作新学院の江川卓投手、 1974年(昭49年)西東京大会で明大中野・権寧敏投手、同じく1974年(昭49年)の静岡県大会で 静岡商・高橋三千丈投手が3試合連続ノーヒットノーランの快記録を達成している。 豪腕・江川投手はもはや説明不要。 明大中野の右腕・権投手は西東京大会の1回戦で多摩工を完全試合、2回戦では立川(5回コールド参考)、 3回戦では工学院大高をそれぞれノーヒットノーランに押さえた。4回戦の明星戦で1回にヒットをゆるしたが、 連続無安打イニングは23という快記録。一躍時の人となった彼の投球だが、ストレートは意外にも伸びがなく、 打者の前で失速して沈むのが逆に打ちづらい理由だったという。このためネット裏のスカウトの評価も分かれた。 静岡商の右腕・高橋投手は3回戦の中遠工戦では初回先頭から三者連続四球を出すという不安定な立ち上がり ながら、その後三者連続三振で切り抜け、7回コールド参考でノーヒットノーランを達成。さらに続く4回戦の富士、 準々決勝の三島南もノーヒットノーランに押さえる快記録を作った。彼は後に中日ドラゴンズに入団。 阪神タイガース戦では球界史上初となる無補殺試合(アウトはすべてフライ)完封勝利を挙げた。 記憶に残る投手だ。 戦前に遡ると、京都商の沢村投手も1934年(昭9年)に2試合の5回コールド参考記録を含むが、3試合連続 ノーヒットノーランを達成している。特に京津大会京都府予選の京都一工戦では23もの三振を奪った。 京都商は予選を制し甲子園に出場している。沢村投手は6試合48イニングを投げて被安打はわずか5。 奪三振はなんと97にものぼる。なお京都府予選では京津大会出場が決定した後の準決勝・平安中戦では 彼は全く登板せず(試合には敗れる)、騒動が起こったというエピソードもある。 夏の甲子園で準決勝、決勝と2試合連続でノーヒットノーランを達成した海草中の嶋投手はどうか。やはり 期待通り予選でもあった。4年時の紀和大会決勝・天理戦でノーヒットノーランを達成。この大会ではいわゆる ”ノーヒットありラン”も記録している。さらには最終学年、1939年(昭14年)夏の甲子園優勝後の明治神宮大会 でも達成しているから、予選、甲子園、(現在でいう)国体でノーヒットノーランを達成していることになるのだ。 まさに空前にして絶後。こんな投手は二度と出てくるまい。 2年連続でノーヒットノーランを達成した投手を挙げてみる。前述の江川投手は1年〜3年生の3年連続で達成 している。江川投手はその内、完全試合も2年連続で達成。いかにずば抜けていた投手だったかがわかる。 その他に完全試合を2年連続で達成したのは川越商の岡崎淳二投手だ。1989年(平成元年)と1990年(平2年) の埼玉県大会で達成。夏の埼玉県大会での完全試合は実に41年ぶり2人目。その翌年にまたもや 完全試合をやってのけるのである。岡崎投手は豪腕というタイプの投手ではなく、左腕から内外角への低め の制球の良さを武器にストレートで押していく強気の投手。 松代の中沢袈裟治投手は、夏の長野県大会で1974年(昭和49年)に完全試合、翌年の1975年(昭和50年) に1四球のみのあわや完全試合となるノーヒットノーランを達成。中沢投手は左腕から右打者の内角胸元に 食い込むストレートと大きく切れのあるカーブを武器とする制球が良く牽制が上手い投手。 横浜の愛甲猛投手も神奈川県大会で1978年(昭53年)、1979年(昭54年)と2年連続でノーヒットノーランを 達成。特に1年生の1978年(昭53年)では、ライトゴロも1つ含む。前進守備の場合、ライトゴロは稀に見かけるが、 完全試合だけでなくノーヒットノーランを達成するにも、野手の鍛えられた守備が不可欠なのは同じである。 強豪相手のノーヒットノーランでは、1971年(昭46年)愛知県大会準決勝で中京をノーヒットノーランに封じ込めた 東邦の水谷啓昭投手、1976年(昭51年) 広島県大会準決勝で広島商をノーヒットノーランに封じ込めた 崇徳・黒田真二投手の好投が光る。 中京大中京は夏の全国制覇7回、広島商は6回の優勝を誇る名門中の名門だが、夏の予選の長い歴史の中では ライバル校の投手にノーヒットノーランを喫するという屈辱も味わっている。 |
やはりノーヒットノーランを達成するレベルの投手になると、後にプロで活躍して有名になる投手も多数いました。 このコーナーは作成中なので、まだまだ有名人のノーヒットノーランが見つかるはずです。 ※ 戦前の記録は投手名等不明部分も多く、情報をお持ちの方がおられましたら、ご教示いただければ幸いです。 |