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1915年(大正4年)からはじまった全国中等野球大会の以前にその前身となる 「関西学生連合野球大会」が関西一円のチームを中心に行われていた。 この大会は運動具店の美津濃商店(現ミズノ)の創業者・水野利八が企画。佐伯達夫 (元野球指導者、元日本高野連会長)らの野球人を世話役に、1913年(大正2年)、 箕有電車(現阪急電鉄)が作った豊中グラウンドで8月に第1回が開催された。 第1回は旧制中学、旧制高校などの学生野球チームに加え、旧制中学OBによるクラブ チームなど43チームが参加した大規模なもので、甲子園春夏通算100勝を超える龍谷 大平安(当時平安中)など現在も高校野球で健在のチームに加え同志社OBのアポロ 倶楽部、市岡中OBの市岡倶楽部などが参加チームに名を連ねる。 関西学生連合野球大会開始から2年後の1915年7月1日に大阪朝日新聞社が全国規模 の中等学校野球大会を開催すべく社告を掲載した。 しかし同系列の東京朝日新聞社がこの4年前の1911年に野球害毒論キャンペーンを 展開したことなど影響したのか、一府二県(大阪、奈良、和歌山)の代表を決める大会の 開催に向けて大阪朝日新聞社に対し社外からの妨害があったようである。ここで朝日新聞 社は美津濃主催の第3回の関西学生連合野球大会を全国大会の予選にしようと美津濃社と 交渉。しかしこの大会は京都(京津)、兵庫、岡山など該当地区以外のチームも参加する 大会であり、これらの地区はすでに代表校が決まっていた。 そこで代表校が必要な一府二県の学校をトーナメント準決勝Aブロックの山に集め、その Aブロックの勝者を決める準決勝を代表決定戦にするという方法で乗り切ることになった。 一府二県予選は和歌山中が優勝し、中等野球関西地区代表となると同時に美津濃主催の 関西大会の決勝に進出。決勝ではすでに全国大会の兵庫予選で敗退していた神戸一中が和歌 山中に勝って大会優勝。優勝した神戸一中は京津代表の京都二中、兵庫代表の神戸二中にも 勝っており、近畿の全国大会出場3代表すべてに勝って大会優勝したにもかかわらず全国 大会に出場できないという結果になった。 |
明星商 | 明星商 10−0 | 和歌山中 16−1 | 和歌山中 2−1 | 神戸一中 5−4 |
高野山中 | ||||
和歌山中 | 和歌山中 16−0 |
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大阪商 | ||||
市岡中 | 市岡中 4−2 | 市岡中 9−0 |
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耐久中 | ||||
大阪市工 | 大阪市工 12−5 |
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八尾中 | ||||
神戸二中 | 神戸二中 11−5 | 神戸一中 3−0 | 神戸一中 9−3 |
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岡山中 | ||||
神戸一中 | 神戸一中 7−0 |
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京都一商 | ||||
京都二中 | 京都二中 5−1 | 京都二中 7−1 |
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御影師範 | ||||
伊丹中 |
関西学生連合野球大会 | 主催__ :美津濃 |
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グラウンド | 優勝チーム | |
1913年(大正2年) 第1回 8月 |
豊中グラウンド | |
1914年(大正3年) 第2回 8月 |
豊中グラウンド | 大阪商 |
1915年(大正4年) 第3回 8月 |
豊中グラウンド | 神戸一中 |
1917年(大正6年) 第4回 1月 |
鳴尾グラウンド | 関西学院中 |
1918年(大正7年) 第5回 1月 |
鳴尾グラウンド | 関西学院中 |
1919年(大正8年) 第6回 1月 |
鳴尾グラウンド | 神戸商 |
第7回 |
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1920年(大正9年) 第8回 3月 |
鳴尾グラウンド | 神戸商 |
1921年(大正10年) 第9回 3月、4月 |
今津 甲陽グラウンド | 京都一商 |
1922年(大正11年) 第10回 3月 |
千舟松岡 紡績グラウンド | 和歌山中 |
1923年(大正12年) 第11回 3月、4月 |
寝屋川 グラウンド | 松山商 |
1924年(大正13年) 第12回 3月 |
寝屋川 グラウンド | 松山商 |
その後美津濃の関西大会は開催時期を1月〜3月の時期に変更。選抜中等学校野球大会が 始まる1924年(大正13年)まで12回にわたって大会が行われ、この大会は現在の 選抜甲子園の前身といわれている。 |