中等野球 戦火に倒れた名選手たち

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戦前 中等野球時代には数々の歴史に残る大記録が残っているが、
伝説を残した名選手たちを含め、多くの球児たちもまた戦争の犠牲になり尊い命を落とした。
1970年8月15日の朝日新聞で、当時の日本高野連理事、氷見一雄氏と朝日新聞運動部、神田順治氏の
2人が選んだ 戦火に倒れた”帰らざるベストナイン”を紹介したい。

帰らざるベストナイン
投手嶋 清一海草中
捕手吉原 正喜熊本工
一塁手中河 美芳鳥取一中
二塁手長良 治雄岐阜商
三塁手景浦 将松山商
遊撃手柚木 俊治呉港中
外野手村上 重夫中京商
外野手梶上 初一広島商
外野手鬼頭 数雄中京商
朝日新聞1970年(昭和45年)8月15日スポーツ欄より引用。

高校野球ファンの方々にとってはおなじみの名前が多いと思うが、
まだ終戦から四半世紀しか経っていない時代だけにかなり説得力のある選考かと思われる。

投手は数多い候補の中から海草中の左腕・嶋清一 が選ばれている。 
1939年(昭14年)第25回大会の夏の甲子園で準決勝・島田商戦、そして決勝・下関商戦の
連続ノーヒットノーランはあまりにも有名な話だ。
平成の怪物・松坂大輔が夏の甲子園決勝でノーヒットノーランを達成したことにより再び注目された。
鋭いタテのカーブに加え、左腕投手独自のクロスファイヤーを武器に
この大会5試合連続の完封劇。5試合での奪三振は57にものぼる。被安打はたったの8。
さらに決勝では外野に飛んだ打球はふらふらっと飛んだセンターフライが2つだけ
というのだから驚きである。直球はゆうに150キロは超えていたといわれる。右打者の
内角を狙って投げた直球は、打者の胸元を突くほどの勢いで向かっていき、そこから
ナチュラルシュートして、打者から見れば”くの字”に見えたという驚きの快速球だったという。
その後明大に進学、学徒動員で戦場へかりだされ、海防艦の乗組員となり、
1945年、仏印沖で戦死。2008年、殿堂入り。

捕手は熊本工、吉原正喜。チームメイトの川上哲治と共にのちに東京巨人軍に入団した。
入団の際には吉原のほうが格上だったようだ。
1937年(昭12年)第23回大会の夏の甲子園、投手・川上との黄金バッテリーで決勝進出。
決勝では惜しくも中京商に敗れたが、見事に準優勝。
1944年、ビルマで戦死。ジャイアンツ最高の捕手という評価をする人も多い。1978年、殿堂入り。

一塁手は鳥取一中の中河美芳 。投手も兼任した。1936年(昭11年)第22回大会夏の甲子園では2回戦で
岐阜商に惜しくも敗れる。のちにイーグルスに入団 。 プロに入ってからは長身で華麗な守備をこなし
”タコ”の愛称で親しまれた。鳥取一中時代では”ゴズ(黒い魚)”というニックネームだったようだ。
1944年、ルソン島沖で戦死。1986年、殿堂入り。

二塁手は岐阜商の長良治雄 。1936年(昭11年)第22回大会夏の甲子園岐阜商初優勝時の二塁手。
のちに慶大に進み神宮でも大活躍。 1945年、沖縄へ弾薬を輸送する際に米軍機の
攻撃を受け戦死。

三塁手は松山商の景浦将 。戦前を代表する強打者として恐れられた。
1932年(昭7年)第9回大会春の甲子園では見事優勝。同年第18回大会夏の甲子園では決勝まで
こまを進めたが中京商に延長の末敗れて史上初の春夏連覇はならなかった。
立教大進学後は外野手、その後創立した大阪タイガースに入団するため立教大を中退。
タイガースでは三塁手に戻り、また投手も兼任して大車輪の活躍。
1945年、フィリピン・カラングラ島で戦死。1965年、殿堂入り。

遊撃手は呉港中の柚木俊治 。1934年(昭9年)第20回大会夏の甲子園で、呉港中が初めて
全国制覇したときの主将・遊撃手。戦後南海ホークスで活躍した柚木進は実弟。
1943年、ラバウルで戦死。

外野手梶上初一 は広島商時代の1924年(大13年)第10回大会夏の甲子園で、
優勝。その時のトップバッターだった。甲子園では初のとなる2試合連続本塁打を記録した。
その後慶大に進み、主将として大活躍。1931年(昭6年)には春季リーグ戦優勝にも
大きく貢献した。中国で戦死したとされる。

戦前だけで4度の夏の甲子園を制覇した中京商は1931年(昭6年)第17回大会〜1933年(昭8年)
第19回大会夏の甲子園3連覇の偉業を達成しているが、その1年目(1931年)の中心選手が
外野手村上重夫 だ。明大を経てライオン軍で活躍。
1945年、フィリピンで戦死。
同じく外野手で選出されている鬼頭数雄 も中京商3連覇の立役者の一人。
3連覇の3年目(1933年)の中心選手。その後日大、ライオン軍他で活躍した。
ライオン軍では実弟の鬼頭政一とともにプレーしていた時期もある。
1944年、マリアナ諸島沖で戦死。