次へ | ページのトップへ | トップへ | 春選抜大会第19回へ |
1946年(昭和21年)、終戦からわずか1年で 夏の中等野球が復活した。夏の大会が復活したことに より、翌年47年には選抜も復活させようという声 が関係者中心に高まった。このとき日本を統治して いたGHQの民間情報教育局は選抜開催に難色を示 していたものの、のち高野連会長となる佐伯達夫氏 らの尽力により”今年限り”の条件つきで開催を 認められるに至った。 主催の毎日新聞上で選抜開催が告知されたのは1月 23日のことで、これから選抜選考を兼ねた大会が 開催された地区もある。 山陽大会は山陽3県(岡山、広島、山口)の8校で 2月22日から開催、九州大会は沖縄を除く九州7県 12校で2月8日から開催される予定だったが、雪 の影響で日程がずれてしまい結局行われなかった。 各都道府県単独では大阪で冬の大会が行われた ほか、愛知では選抜野球大会資料提供試合として6校 によるリーグ戦が行われた。 1938年からはじまった「中等野球五地区大会」 のうち四国地方四県中等野球大会は2月に行われて おり、この大会の結果も選抜選考に大きく影響した と思われる。 |
選考委員31氏により選考が行われた。最初に東日本 、東海、北陸、京津、紀和、大阪、兵庫、山陰、山陽 、四国、九州の11地区に分け各地の試合、練習観察 により成績や状況の一覧を出し、そこから実力を再検 討した結果、50校を第一段階で選出した。 東日本・・桐生中、慶応普通部、松本商、慶応商工、 桐生工、成田中、松本市中、沼津中、千葉中 東海・・享栄商、津島中、半田商工、中京商、愛知商 、富田中、岐阜商、多治見中 北陸・・該当チームなし 京津・・京都一商、京都二中、平安中、京都二商、松 原中、京都商 紀和・・海草中、和歌山中、田辺中 大阪・・天王寺中、今宮中、北野中、第二山水中 兵庫・・神戸一中、明石中、芦屋中 山陰・・松江中 山陽・・下関商、防府商、三原中、広島商、下松工 四国・・高知城東中、徳島商、松山商、松山中、大川 中 九州・・小倉中、熊本商、豊国商、中学済々黌、大分 商、鹿児島商 次に同地区の候補の中の下位チーム 成田中、松本市中、沼津中、千葉中、中京商、愛知商 、多治見中、松原中、京都商、三原中、松山商、松山 中、大川中、大分商、鹿児島商 (半田商工、第二山水中、防府商、広島商、下松工 は保留)を候補からはずし30校にした。 さらに伝統のとらわれず将来性のあるチーム、地域性 などを考慮し桐生工、北野中、芦屋中と保留の5校を 候補から除外し最終候補27校に絞り込んだ。 しかし27校のうち、京都4校、和歌山3校、九州4 校に対し、広い山陽から代表1校は少なすぎるの声が あがった。ここで関東側委員により東日本の代表を1 校減らし3校にしてでも京都、和歌山、山陽、九州の 代表不均衡を是正してほしいと提議があり、最終的に 平安中、豊国商を除外し山陽から広島商を追加し代表 26校、補欠8校が決まった。 |
弘田氏作PDFファイル 『中等野球 五地区大会』 |
-1938年度〜1947年度- |
岡山 | 岡山二中 関西中 |
広島 | 三原中 ★広島商 |
山口 | ▲防府商 萩工 ★下関商 下松工 |
1回戦 | ||
防府商 | 3−1 | 三原中 |
萩工 | 7−5 | 岡山二中 |
下関商 | 8−3 | 関西中 |
広島商 | 3−2 | 下松工 |
準決勝 | ||
下関商 | 5−1 | 広島商 |
防府商 | 10−4 | 萩工 |
決勝 | ||
下関商 | 7−5 | 防府商 |
香川 | 志度商 大川中 |
徳島 | ★徳島商 徳島工 |
愛媛 | 松山中 松山商 |
高知 | ★城東中 高知商 |
1回戦 | ||
徳島商 | 12−3 | 志度商 |
松山中 | 11−0 | 高知商 |
城東中 | 7−0 | 松山商 |
大川中 | 8−4 | 徳島工 |
準決勝 | ||
徳島商 | 14−6 | 松山中 |
城東中 | 12−4 | 大川中 |
決勝 | ||
城東中 | 10−0 | 徳島商 |
福岡 | 福岡工 ★小倉中 ▲豊国商 中学修猷館 |
佐賀 | 唐津商工 |
長崎 | 長崎商 |
熊本 | ★中学済々黌 ★熊本商 |
大分 | 大分中 大分商 |
宮崎 | 宮崎中 |
鹿児島 | 鹿児島商 |
福岡工 | __ | __ | __ | |
小倉中 | __ | |||
中学済々黌 | ||||
唐津商工 | __ | __ | ||
宮崎中 | ||||
鹿児島商 | ||||
大分中 | __ | __ | ||
豊国商 | __ | |||
長崎商 | ||||
大分商 | __ | __ | ||
中学修猷館 | ||||
熊本商 |