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掲示板、ブログ、SNSのDM等、読者の方からの調査依頼や質問の内、判明したもの をこちらで紹介していきます。過去の分も追加していきます。 |
◆Q 1949年秋の岡山県大会優勝の関西、山口県大会優勝の萩北の2校はなぜその後 に行われた中国大会に出場しなかったのか? |
◆A 弘田正典氏に情報提供いただきました。ありがとうございます。 引用----------------------- とりあえずの「回答」?としては ※「岡山大会・山口大会は 中国大会より後に開催 されていたから」です ・中国大会は10月08日に開幕 10月10日に決勝 ・岡山大会 決勝は10月23日 ・山口大会 決勝は11月06日 また 出場メンバーから推測すると 岡山の倉敷老松(倉敷工)と 山口の柳井は両校とも夏の甲子園に 出場した旧チームでの参加でしたし その他の各校も旧チームでの出場を 選択していたようです 鳥取の地元新聞 「日本海新聞」の9月3日付に 以下のような記事がありました 「十月米子で 中国高校野球 高校野球シーズンの最後を飾る 中国高校野球大会は五県高校野 球連盟主催で十月八日から三日 間米子東校グラウンドで開催さ れるが出場は地元鳥取県四チー ム、他の四県一チームずつの八 チーム、選手資格は新、旧チー ムいずれでもよい、抽せんは七 日正午米子東高で行われる なお県高校野球連盟では県民 大会として中国大会予選をか ね二十三日から三日間倉吉高 校グラウンドで挙行、参加は 鳥取西、倉吉、倉吉農、米子 東、境の五高校でリーグ戦」 日本海新聞」1949.09.03より 当時は今の基準とは別の考え方 で大会が運営されていたことが わかる実例のひとつです 引用ここまで(旧字は文字化けを防ぐため新字に変更しました)------------ 翌年1950年昭和25年の選抜には中国地区からは萩北(山口)1校だけが選ばれて います。管理人は1949年の秋の山口県大会優勝校が萩北というのは毎日新聞山口版 で見つけましたが、中国大会はその後に行われたものと思っていたため質問者の方と同 じ疑問を持っていました。また山口では中国大会が行われる前の10月はじめに下関大 会、選抜大会といった小規模の大会も行われましたが、おそらくこれらは県大会とは全 く関係ないと思います。 選手の参加資格については、黎明期の秋季大会について静岡の読者さんのブログでも紹介 されていました。朝日新聞の1948年昭和23年の第1回全国高校野球地区大会に関する 記事には選手の参加資格は「全国高校野球大会出場資格と同じ」とあります。現在で例える なら夏の大会が終わって本来引退するはずの3年生が秋の大会にも出場するということに なります。 追記・・弘田氏の追加調査により新たに情報をいただきました。 ありがとうございます。2020/11/27 1949年の第4回秋季島根県大会が行われたのは10月14日〜10月16日の期間で、 実は島根も岡山、山口と同じく中国大会(10月8日〜10月10日)の後に県大会が 開催されていたことが弘田氏の調査により判明しました。「第4回秋季島根県大会」 とは別に「第2回中国地区大会島根県予選」が9月24日から10月1日にかけて行われ 松江高が優勝。この中国地区予選で優勝したことで松江高がその後に行われた中国大会に 出場しました。中国大会の後に行われた秋季島根県大会も松江高が優勝したため、この大 会が中国大会につながる予選だったと管理人は思っていました。 島根秋季県大会は1946(昭和21)年に第1回県総合体育大会中等学校新人野球選 手権大会として開催されています。この経緯を踏まえると旧チームの選手も参加できた (後述)初期の秋季中国大会の県予選がこれとは別に開催されていたであろうというこ とが推測できます。 引用--------------- 1949(昭和24)年 第2回秋季中国地区大会 ◎鳥取県予選の最終日は9月25日(5チームのリーグ戦) ◎島根県予選の決勝は10月01日 ◎広島県予選の決勝は10月02日 ◎岡山県と山口県は予選 未開催 島根県の地元新聞「島根新聞」に 下記のような記事があります ・中国高校野球県予選組合せ 県高校野球連盟主催の中国地区高校野球大会 県予選大会を二十三日から三日間出雲球場で 行われるが試合番組は次の通り(出雲) 二十三日九時半、出雲産高―江津高(一)………【1回戦】 十二時、 松江高―大田高(二)………【2回戦】 二時三十分、 大社高―益田高(三)………【2回戦】 二十四日十二時、松江産高―出雲高(四)………【2回戦】 二時三十分、 浜田高―(一)勝者(五)…【2回戦】 二十五日 九時、(二)勝者―(三)勝者………【準決勝】(六) 十二時、(四)勝者―(五)勝者………【準決勝】(七) 三時、(六)勝者―(七)勝者………【優勝戦】(八) 「島根新聞」1949(昭和24)年09月10日付より ・中国地区高校野球県予選開く 中国地区高校野球大会島根予選は 松江高、松江産高、出雲高、出雲産高、 大社高、大田高、江津工高、浜田高、 益田高の九校参加の下に二十四日 出雲球場で開かれた 【1回戦】 出雲産102 020 000=5 江津工000 201 03A=6 【2回戦】 松江高 011 020 000 000 001=5 大田高 030 010 000 000 000=4 (延長15回) 益田高100 000 000=1 大社高021 000 01A=4 松江産000 000 000=0 出雲高100 000 33A=7 浜田高000 001 002=3 江津工000 000 301=4 「島根新聞」1949.09.26〜27より 【準決勝】 江津工4−2出雲高 松江高6A−5大社高(延長11回) 優勝戦は雨で延期 中国地区高校野球県予選 中国地区高校野球島根予選大会 第三日の二十六日は午前九時から 出雲球場で行われ、勝進んだ ベスト4により準優勝二試合を 行った後、午後三時半から 松江高、江津工高により 松江先攻で優勝戦に移ったが、 一回両軍各二点をあげ、二回表 松江零その裏江津の攻撃のころ から降雨はげしく続行不能となり ノーゲームを宣せられた、このため 優勝戦は両校協議の上日取りを決定 同球場で無料で公開されることと なった、準優勝戦の戦績次の通り 江津高4−2出雲高 松江高6A−5大社高(延長十一回戦) 「島根新聞」1949.09.28より 松高、江津に楽勝 中国地区高校野球島根予選の優勝戦は 一日午後二時半から出雲市球場で 松江高の先攻、江津工高との間に行われたが 松江細田投手の好投で江津を一安打無得点に 封じ、攻めてはよく打ち六回五安打を集中、 三点を挙げ最終回さらに二点を加えて 五対零と楽勝した(出雲) 【決勝】 松江高000 003 002=5 江津工000 000 000=0 「島根新聞」1949.10.02より 引用ここまで--------------- 今回判明した1949年のほか、1951年にも秋季島根県大会とは別の中国大会の出 場校を決める島根県予選が行われたことがわかっています。 秋の別大会関連で『島根県高校野球史』(昭和51年4月1日発行)に載っていたのは1 951年の第4回中国地区大会島根県予選だけです。以降は現在のような中国地区大会 予選を兼ねた秋季県大会になったのではないか? 1950(昭和25)年は第5回秋季島根県大会が10月13日〜10月16日に、第3 回秋季中国大会が11月3日〜11月5日にかけて開催されており、秋季県大会で優勝 した浜田が島根代表で中国大会に出場。大会で準優勝を果たし翌1951年の選抜大会 に出場しています。 また現在の秋季地区大会とは異なり旧チームの選手が参加していたこと、中国大会の 出場校は各県の高野連が推薦していたことが『柳井高等学校野球部史』からわかり ます。 『柳井高等学校野球部史』(1986.04.01発行)引用--------------- 「 次に、この年(1948年)からシーズン最後を飾る 中国地区大会がひらかれており、その第一回大会は 中国五県高野連主催、朝日新聞社、放送局(NHK)後援 で十一月十三日から二日間地元四校に加えて四県代表各二校 計一二校の参加により岡山市関西高校球場で開かれた。 この大会は今日の秋の県体―中国地区大会―とは異なり、 旧チームとしての最後の大会であって各県から高野連の推せん により参加校を決めたものであるから、わが山口県からは当然 甲子園に出場した柳井高校がまず推せんさるべきであった。」 P.139より 引用ここまで--------------- この記述から、1949年秋季県大会がまだ開催されていなかった岡山、山口からそれ ぞれ中国大会に出場した倉敷老松(倉敷工)と柳井は両校ともにこの年の夏の甲子園に 出場して好成績をおさめたことで県高野連に推薦されたというのは間違いないと 思います。 |